中古車輸出をはじめよう


ご挨拶
私は、世田谷の一角で歯科医院を営む父と母の元に生まれました。父と母は医大時代の同級生で、大学卒業後、父が開業した歯科医院に母が合流する形で結婚しました。その後、私が生まれ、妹が欲しいという私の願いで妹のゆみが生まれました。
私は、家業を継ぐために医学部へ進学しました。いつも中高と私の側から離れなかった妹は、私と同じ医学部に進学し、途中で絵が描ける美大に転入しました。
美大を卒業した妹は、横浜にあった小さな貿易会社にWEBデザイナーとして就職しました。
その貿易会社は、日本の中古車を世界へと輸出販売している貿易会社でした。海外の自動車バイヤーとメールやチャットで直接商談し、日本の中古車市場から希望する中古車を探し出し、海外の自動車バイヤーの元へお届け、輸出販売するというビジネススタイルの貿易会社でした。
人見知りで甘ったれな妹に、海外の自動車バイヤーと直接商談するなどという大それたことが出来るわけもありません。
WEBデザイナーの妹は、英語による海外向けの自動車販売ホームページを制作し、会社の営業担当者たちが直接商談するための海外自動車バイヤーたちを会社ホームページに誘導してくることが担当になりました。

その仕事が妹の肌にあっていたのか、妹は、東京世田谷の実家から母の小さなベンツで、毎日1時間半かけてその小さな貿易会社に通勤し、働いていました。
妹がデザイン制作した会社ホームページにやって来た海外自動車バイヤーは、会社の営業担当者たちに割り振られ、各担当者たちによって自動車の商談が進められます。その営業担当者の中に、私の中等部時代の同級生である小倉まなみの姿もありました。
小倉まなみは、もともと自動車の整備工で整備工場で働いていました。その整備工場の社長が引退、会社が閉社になってからは、しばらくフリーで中古車オークション会場に出入りし、そこで細々と中古車を国内バイヤーに販売していました。
中古車オークション会場に出入りしていて、ちまちまと中古車取引している国内バイヤーに対し、何台も一気に落札していく羽振りの良い海外バイヤーの姿を目の当たりにしました。
そんな時に、横浜の貿易会社での海外営業の求人を見つけて、自分でも海外販売してみたいと入社してきたのでした。
しかし、社長と小倉まなみは、会社の営業方針に関して、よくぶつかり合い、小倉まなみは短い期間で会社を去ることとなってしまいました。
社長と喧嘩して会社を辞めたと聞いた妹は、小倉まなみのことを心配し、独立して自動車の海外販売を始めるという小倉まなみを家に招き、彼女のための海外販売用ホームページを作ってあげました。
その打ち合わせで、家にやって来た小倉まなみと私は中等部以来、久しぶりに再会しました。
小倉まなみは、妹の制作した海外販売ホームページのおかげもあって、順調に海外販売を伸ばしていたようですが、妹の勤めていた横浜の貿易会社は、外国人営業担当者などが作った負債などにより倒産してしまいました。
無職になった妹は、特に慌てることもなく、再就職先を探すこともなく、実家の母の元で家事手伝いなどと、のんびりと絵を描いて過ごしていました。
妹は、毎日母と一緒にいられて、大好きな絵を描いて過ごせるので満足そうでしたが、私は、このまま大好きな妹がニートにでもなってしまうのではないかと不安でした。
ちょうどその頃、父の歯科医院にて歯科医の勉学と共に、歯科医院経営の勉学も始めていた私は、妹の勤めていた横浜の貿易会社のビジネスモデルに勝機を感じて、会社経営の勉学と妹のために、プリンセストレーディングを起業しました。

私が起業したプリンセストレーディングのメイン事業となった「自動車の海外グローバルビジネス」にご興味のある方は、ぜひ、プリンセスアカウント(ユーザー登録無料)を作成し、ログインしてお付き合い頂けましたら幸いです。
プリンセス・アカウント作成無料
Princessアカウントを登録することにより、
利用規約とプライバシーポリシーに同意したとみなされます。